更新时间:2023-07-22 17:27
井村久美子,女,日本跳远运动员,2010年广州亚运会日本代表团成员,获得亚运会女子跳远金牌。
山形県酒田市出身。酒田市立松原小学校・酒田市立酒田第三中学校・日本大学山形高等学校→仙台育英学园高等学校を経て福岛大学卒业後、2008年11月までスズキ陆上竞技部に所属していた(後述)。
小学校2年生から陆上を始める。小学校5年生で走幅跳4m46をマークする。6年生では5m18という记録を残し、「惊异の天才少女」として注目を集める。中学校进学後も活跃を続け、1年生の时に12歳年齢别世界记録となる5m97をマークし、全国中学校体育大会陆上竞技女子共通走幅跳でも优胜する(発育差の大きい中学生の大会において、1年生が优胜することは稀である)。池田はこの後、走幅跳で3连覇という金字塔を打ち立てた。加えて、3年时には走幅跳、100メートルハードル、100メートルジュニアハードルの3种目で日本中学记録を树立する。
日大山形高校进学後、走幅跳で高校1年の年に行われたアトランタオリンピックの参加标准记録を目指すも、惯れない下宿生活などで调子を崩し、その年のベスト记録は5m85と前年より30cm以上も落ち込んでしまう。父亲が仙台育英高校のコーチに就任したのを机に同校に転校して再起を図るが、结局一度もインターハイを制覇することはできなかった。高校最後の全国大会である国民体育大会こそ优胜したが、高校3年间のベスト记録は6m14にとどまり(ただしこの记録も高校トップクラスの好记録である)、またハードルでも、中学时代の记録を更新することはなかった。
高校卒业後は福岛大学に进学し竞技を続ける。そこで父亲から育成を托された川本和久监督のもと、大学2年から技术面の改良に着手する。それまでの踏み切りと同时に両脚を前方へ投げ出す「かがみ跳び」(『久美子ちゃんジャンプ』と呼んでいたそうである)から、「シザース」(空中で脚を回転させる跳跃技术)への移行を试みた。
また、体质改善にも积极的に取り组み、好物のチョコレートを断ち、野菜中心の食生活に切り替えて7kgの减量に成功した。これが功を奏し、その秋の日本インカレで5年ぶりに自己记録を更新する6m29を跳び优胜する。日本ジュニア选手権では6m46(+2.7)の好记録をマークして优胜。その年チリ・サンディエゴで行われた世界ジュニア选手権に出场。100メートルハードルで5年ぶりに自己记録更新、走幅跳では6m43の日本ジュニア记録(当时、现在は中野瞳の6m44)をマークし铜メダルを获得した。そして2001年、さらに飞跃し自己记録を连発する。
日本选手権では、従来の日本记録(6メートル61)を大幅に上回る6m78の跳跃を见せる。しかし花冈麻帆が同大会で6m82を跳び、日本记録保持者にはなれなかった(この後も、池田と花冈は世界大会代表がかかった日本选手権で数センチ差の接戦を何度も见せていった(後述))。同年の世界陆上竞技选手権大会(エドモントン大会)代表に选出され出场、予选を通过し11位に入る(长距离以外の女子选手が世界大会の决胜に进むことは少ない)。また、ユニバーシアードでは铜メダル获得。
2003年(平成15年)、パリ世界选手権に出场。
2004年(平成16年)、世界室内选手権に出场。アテネオリンピックには出场できなかった。
2005年(平成17年)、日本选手権で花冈を押さえて优胜し、ヘルシンキ世界选手権に出场。マカオで行われた东アジア竞技大会では见事に优胜した。
2006年(平成18年)、左太もも裏肉离れのためモスクワ世界室内选手権を欠场するが、5月に静冈国际陆上でシーズン初戦ながら2007年世界陆上竞技选手権大会参加标准记録A(6m70)突破となる6m75の大会新记録を树立して优胜し、IAAFグランプリ大阪大会では6m86の日本新记録(2005年世界ランキング6位相当)を树立。并み居る世界の强豪たちを抑えて优胜した。これにより本人も目标としてきた日本女子初の7mジャンプが现実味を帯び始めた。
2006年(平成18年)、ドーハアジア竞技大会に出场し、6m81を跳び、アジア大会のこの竞技で日本人36年ぶりの金メダルを获得。
2007年(平成19年)4月、织田干雄记念国际陆上竞技大会にて、100m障害で日本歴代2位となる13秒02をマーク。
2007年(平成19年)8月、世界陆上竞技选手権大会(大阪大会)に出场。男子短距离の朝原宣治と共に、日本选手団81人の代表として主将を务める。女子走幅跳にて决胜进出を狙うも、6m42と奋わず、予选败退した。
2008年(平成20年)7月6日、南部忠平记念陆上竞技大会で6m70の大会新记録で优胜し、悲愿の五轮内定を获得。苦しんで掴んだ北京への切符に、记者会见では感涙で頬を濡らした。同日、北京五轮代表选手二次発表で代表入りを果たした。
2008年(平成20年)8月19日、北京オリンピックに出场したが、6m47の记録(2回目の记録。1回目は6m44、3回目はファウル。出场42人中20位、上位12名が予选通过)に终わり、予选败退。ちなみに予选1位のブリトニー・リース(米国)は6m87、12位のチェルシー・ハモンド(ジャマイカ)は6m60であった。
2008年(平成20年)11月、铃鹿サーキットでレース运営の仕事に携わる2歳年下の井村俊雄(棒高跳で高校総体2连覇、大学选手権优胜の元陆上选手)と结婚。生活拠点の変更に伴い11月末でスズキを退社。
2008年(平成20年)アイディアメンタルトレーニングセンターに所属。
2009年(平成21年)1月10日、陆上竞技担当记者を集めての公开练习で、「2012年ロンドンオリンピックを目指す」と现役続行を表明。また结婚に伴い登録名を「井村久美子」と改名することも并せて発表。サニーサイドアップとマネジメント契约を结んだ。
2000年(平成12年) 世界ジュニア 走幅跳 3位
2001年(平成13年) 东アジア大会 走幅跳 2位
2001年(平成13年) ユニバーシアード 走幅跳 3位
2001年(平成13年) 世界陆上 走幅跳 11位
2002年(平成14年) アジア选手権 走幅跳 5位
2002年(平成14年) 日本インカレ 走幅跳 优胜
2002年(平成14年) 日本选手権 走幅跳 2位
2002年(平成14年) アジア大会 走幅跳 7位
2003年(平成15年) 日本选手権 走幅跳 优胜、100メートルハードル 2位
2003年(平成15年) 世界陆上 走幅跳グループA 11位
2004年(平成16年) 世界室内选手権 走幅跳 出场
2004年(平成16年) 日本选手権 走幅跳 2位、100メートルハードル 优胜
2005年(平成17年) IAAFグランプリ大阪大会 走幅跳 4位
2005年(平成17年) 日本选手権 走幅跳 优胜、100メートルハードル优胜
2005年(平成17年) 世界选手権 走幅跳 出场
2005年(平成17年) アジア选手権 走幅跳 优胜
2006年(平成18年) IAAFグランプリ大阪大会 走幅跳 优胜
2006年(平成18年) アジア大会 走幅跳 优胜
2007年(平成19年) ワールド・スーパーツアー ドーハ大会 走幅跳 优胜
2007年(平成19年) 世界陆上大阪大会 走幅跳 予选败退
2008年(平成20年) 北京オリンピック 走幅跳 予选败退
2010年(平成22年) 日本选手権(香川県) 走幅跳 优胜
2010年(平成22年) 南部记念(北海道) 走幅跳 优胜
2010年(平成22年) 第7回田岛直人记念陆上竞技大会 走幅跳 优胜
2010年(平成22年) 水戸招待陆上 兼水戸市陆上竞技大会 走幅跳 优胜
2010年(平成22年) アジア大会 走幅跳 5位