更新时间:2024-10-16 09:30
文政10年(1827-1828)
6月23日(和历,下同) 生于江户骏河台,幼名刚太郎。
天保5年(1834-1835) 8岁
入学安积艮斋私塾“见山楼”,开始学习汉学、剑术、柔术、炮术。
天保14年(1843-1844) 17岁
首次登城,面见将军德川家庆。
弘化4年(1847-1848) 21岁
从部屋住到城中出仕。
安政2年(1855-1856) 29岁
父亲忠高病死。继承家业,袭名又一。
安政4年(1857-1858) 31岁
12月16日 叙官布衣,相当于从六位。
安政6年(1859-1860) 33岁
11月21日 任从五位下诸大夫,丰后守。
12月1日 被任命为遣美使节团目付,去往美国交换《日美友好通商条约》批准书。
安政7年(1860) 34岁
1月18日 乘美舰波瓦坦(Powhatan)号从品川启航。
3月8日 到达旧金山,与咸临丸会合。
3月17日 从旧金山出发。
万延元年(1860-1861)
闰3月24日 到达华盛顿。
闰3月27日 谒见布坎南总统,递交国书。
4月2日 交换条约。
4月3日 会见美国国务卿刘易斯·卡斯。
4月4日 于国会进行汇率谈判。参观华盛顿海军工厂。
4月13日 与正使、副使一同在宾馆礼拜堂合影。
4月24日 参观美国造币局,与美方交涉。
4月25日 于美国造币局进行日美货币分析实验。
5月12日 从纽约港启航。
9月28日 绕地球一周后回到横滨。
11月8日 任外国奉行。
向幕阁提议发行官方报纸,未被采纳。
文久元年(1861-1862) 35岁
4月13日 因俄国军舰占领对马事件被派往对马。
5月20日 与俄舰长毕里列夫谈判,俄方拒绝撤离,谈判中止。
7月26日 辞任外国奉行。
文久2年(1862-1863) 36岁
6月5日 任勘定奉行胜手方(掌管财政)。避老中阿部正外(丰后守)官名,改称上野介。
闰8月25日 兼任江户南町奉行。
12月1日 任第一代步兵奉行。
文久3年(1863-1864) 37岁
7月22日 任陆军奉行。
元治元年(1864-1865) 38岁
11月10日 正式决定建设横须贺制铁所(后扩建为横须贺海军工厂)。
12月18日 任军舰奉行。
庆应元年(1865-1866) 39岁
8月1日 在横滨开设法语学校。
9月27日 进行横须贺制铁所的锹入式。
庆应2年(1866-1867)40岁
8月11日 兼任海军奉行并。
庆应3年(1867-1868)41岁
12月 任勘定奉行兼陆军奉行。
庆应4年(1868) 42岁
1月15日 主张与新政府军开战,未被采纳后被罢免。
3月1日 到达权田村,暂住东善寺。
3月4日 遭数千名暴徒袭击,将其击退。
4月22日 新政府军东山道总督向高崎藩、安中藩、吉井藩下达了追捕小栗的命令。
闰4月3日 安排夫人道子、母亲邦子与养女钺子前往会津避难。
闰4月5日 被三藩士兵逮捕,押送至三之仓的阵屋。
闰4月6日 在水沼川原与家臣一起被斩杀。
闰4月7日 养子又一(忠道)与家臣等在高崎藩牢房处刑场被斩首。
心ありてゑみもかくや志たわまし神のみ國の臣なればこそ——出使美国时赠副使村垣范正的和歌
建设横须贺制铁所
设立横滨法语传习所
引入法式陆军制度、训练方式
开发中小坂铁山
创办兵库商社
开设筑地宾馆(日本第一座西洋式宾馆)
小栗上野介は、年僅かに十四歳の頃であつたが、初めて建部家の客となりて来邱せられし折、恰も其擧動全然大人の如く、言語明晰、音吐朗々堂々としで既に巨人の風あり、未だ十四の少年にてあり乍ら、煙草を燻らし、煙草盆を強く叩き立てつゝ一問一答建部政醇藩主と應答し、人皆其高慢に驚き乍ら、後世には如何なる人物となられるであらうかと噂し合つた。
小栗上野介登城は、普通人の如くに輿に依らずして、常に乗馬であつた。而して小栗上野介の登城せらるゝ折には、假令家の中に潜みつゝあつても「之れは小栗殿の登城也」と云ふ事が、其馬の足音にて能く判断し得られた。蓋し小粟上野介は、必ず駿馬に跨り行くを例とし、其馬蹄の響きが、他の馬の夫れとは全く違つて居たからである。
小栗上野は、一日朝比奈閑水と云ふ當時其名の聞へた外國奉行役を勤めた一旗本等と共に、遊船にて墨堤の櫻花を見物に行つたことがある。小栗は朝比奈に誘はれたのである。此時小栗は、櫻も酒も美人も全く眼中に入れずして、唯曰く、「彼の川の瀬は、水利上の利害は如何であらう。又彼の堰は、今少しく高くせぱ有利ではあるまいか、或は低くせば更に好いではなかろうか。彼方の水田此方の水利は、民生の爲に、善悪可否如何であらう」云々と。
小栗は書畫を愛好した。併し乍ら古人の手に成りしものを藏するを好まずして、常に云ふには、「宋と云ひ明と云ふも、畢竟鑑定家の憶測に過ぎないのであり、何人も之を現地現代に目撃せしにはあらず、斯くの如き眞偽不明のものを無上に愛好するなぞ不見識の至りである」と。彼の書畫觀は斯くの如くであつた。而して彼は當時の名匠大家をして、其面前に於て揮毫せしめ、其眞物なるを知つて始めて之を珍藏したとのことである。
一日小栗上野介、予が官邸に來り云、先年佐賀より政府へ納めし蒸汽修船器械一式あり蓋し鍋鳥閑叟翁其國に取建る心組にて和蘭より購ひたるが、其取建費の夥多なると其之を掌る人なきを病み、政府に納めて用を爲さしめんと欲するなり、其器械三分の二は既に運びて當港(横濱)石炭庫にあり、一分は猶長崎港にあり、客歳既に相州貉ヶ谷灣に於て、此器械を以て「ドック」及製鐵所を取建んとし、既に掛役員も定め測量迄も爲したれど、其業に馴れし人無きを以て弭めたれど。許多の器械を錆腐に付して閑叟翁が芳志を空ふするに忍びず、兄今囘翔鶴(船名)を修理するに用ひたる佛人ドロートル輩を率ゐ貉ヶ谷に至り一と骨折り呉ては如何と、左も無造作に話出せしが、予「ドック」の名さへ始て聞きたる程なれば、況や製鐵所などは如何なる物なるやも知らやず、且佛人ドロートル輩を傭ふには、從令當人は承知するも水師提督や公使の意中も測り難ければ遽に諾せず、上野と共に今夕佛館に往て協議し然る上に其請に應ずべしと答へたり。上野茲に於て其僕を金川驛に遣し其旅館を定め、予と共に佛公使館に就き其由を語るに、ロセスも其業に暗ければドロートルの果して其任に適すべきか否やを判ずる能はず、此に於て一价を馳せて水師提督ジョウライスに報ぜしかば、ジョウライスは上野の來るを知り、使と共に公使館に來り其談を聞て後答へで云、ドロートル年猶少にして學も末だ深からず、故に既に成る物は守り能ふべしと雖、新たに造る業覺束なし、本船一等蒸汽士官ジンソライと云ふ者あり、此人今私事を以て上海に行くと雖、早晩歸り來れば此者歸り次第其器を點檢せしめ、然る後確と報ずべしと、茲に於て談止みて歸れり。「セミラミース」艦乗組士官蒸汽方ジンソライ上海より到り、佐賀献納蒸汽製鐵器械を熟觀するの後に、提督ジヨーライス公使ロセスを以て申出る趣は、該器械の義は船體小振にて從で馬力も強からざれば鐵具の小補理は辨ずるに足る迄の用にて、迚も「ドツク」を造り大仕事を做し得べき物にあらず、且「ドツク」を造り船艦を造り出すが如き大事業は、中々我輩學術の能く成就すべきにあらざれば、是は其任に堪へたる然るべき人を選みて別に雇ふにあらざれば叶間敷、且該器械は之を横濱近傍に掘付小修復に備へられなば至極用便なるべき旨なりしかば出府して小栗氏に相談を遂げしに既に軍艦を有する以上は破損は有勝の事なれば、之を修復するの處無かるべからず、況や唯今迄の如く彼國使用餘の古船買ひ、我は託して新調するも我に修船場無き以上は、一たび壊れなば忽ち用を爲す能はず、又壊船の度毎に外國へ運航するときは、往返費用計りも格外の事なれば、断然良工を迎へ近港にて然る可き場所を選ばせ、取建る事に決定すべしと極りたれば、何れの國なりとも其然る可さを選まんと議したるに、海外各國皆我師なれど餘國は桀傲不遜にて我を恐嚇し、其不馴を欺き飽迄利を貪らんとするのみなれど、唯佛國は巽順にして他に比すれば其説も稍信を取るに足る、依て矢張佛國に委託する樣爲すべしと、予猶其巨費の如何を憚りたれば、塾々仔細商量あられよ、今に於ては爲すも爲さゞるも我に在り、既に託せし後は復如何ともすべからずと云へば上野笑て、當時の經濟は眞に所謂遣り繰り身上にて、假令此事を起さゞるも、其財を移して他に供するが如きにあらず、故に是非無かるべからざる「ドック」修船所を取立るとならば、却て他の冗費を節する口實を得るの益あり、又愈々出來の上は旗號に熨斗を染出すも猶土藏附賣家の榮譽を殘すべし(上野が此語は一時り諧謔にあらず、實に無限の憐むべき者あり、中心既に政府の最早久存する能はざるを、十分に判する久しければ、其存するの間は一日も政府の任を盡さゞる可からざるに注意せし者にて、熟友唔言の間、常に此口氣を離れざりき)
(栗本鋤雲氏の手記に係る「横濱半年餘」より抜萃)
小栗はさらに様子を改めて、
「私は幕府の臣であるから幕府のためにつくす身分ではあるけれども、結局それは日本の為であって、幕府のしたことが長く日本のためとなって徳川のした仕事が成功したのだと後に言われれば、徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。同じ売り据え(売家)にしても土蔵付売据の方がよい。あとは野となれ山となれと言って退散するのはよろしくない」と語った。
(島田三郎「懐舊談」)
海舟日記(慶應三年三月二十五日)
……志を奮て忠諫せんとす。如何せん言跡壅塞して通ぜず、司農小栗上野介、小野内膳が輩跋扈して、上者是に壓せられる。氣を張つて進言する者無之、雷同して黨あり、此輩見る所規模小にして、天下の大勢を深察せず、佛郎察に頼みて大いに國内を併呑せんとす。誠に其の力を量らずして終に邦家に災を發せんか。
海舟日記(慶應四年正月二十五日)
……近く五六年、我官吏佛郎察の教化師カシヨンと云ふ僧妖に心服し、偏信して我社稷を盛大にせんとす。是何の所爲ぞ、英吉利人其偏執あるを憤りて、西諸侯と結び、王政復古、諸侯を剥ふして郡縣の説を主張す、我官吏之を聞いて、益佛郎察に依頼し、倚角の勢を保持せんとす。嗚呼今日の事何人の手に出づるや、我是を辯ぜず、殊に悲嘆して訴ふる處なし……
小栗上野介謹慎して軍門に下り
而も有無を云はさず斬首
[海陸新聞] 閏四月廿日 〇此ごろ御國峠に浪士多人數屯するよしにて、前橋侯高崎侯安中侯など、上州の諸侯を先鋒として官軍勢同國永田宿まで押寄、夫より山道に入り三國峠へ攻登りしに此峠は甲州上州武州三國にして、難所きはめて多かるに、此所に楯こもりしは其勢千人ばかりにして、何者とも定かならねど、多くは小栗上野介が餘勢にて、小栗は去る三月中土着なし、同國權田村へ來りしに、其のころ此近郷一揆はおこりしに時なれば、百姓忽地小栗をとり卷、打殺さんと爲したるを種種云なだめ、之より小栗は富たれば此處來て徳をほどこし、金銀を以て土人をなづけ、然して後その息又一は、西洋傳習の調練者なるゆゑ、農兵の兵隊を取りたてること数百人、勢い國振ひしかば近隣の諸侯これを恐れ、官軍の大總督へ此事を訴えしかば、官軍忽まち馳向ひ、前橋侯高崎侯安中侯など先手として權田村へ押よするに、小栗父子は謹慎して敢て戰鋒の兵を出さず、官軍方の軍門へ家來三人を引きしたがへ、召に應じて往たるに、上野介は三倉宿の河原にて三人の家來とともに有無を云さず斬首せられ、又一はまた高崎の城下において同斷の刑に逢しを小栗が残黨怒りて此度兵を集め、三國峠へ籠りしに相違なきものと見えて、寄手は主君の仇なるよし呼懸々々發砲して、廿二日の手始めより晝夜朝暮の差別なく、一息するとは打はじめ、一息するとは打合ゆゑ、安中前橋高崎勢怪我人出來たるのみならず、第一先鋒の人々は幾夜も寢ぬに疲勞たりとて廿五日に高崎城より後詰の勢を繰出したければね其後の戰爭いかに成しや。
右は高崎侯の藩士後詰の勢の中、山加某よりの來状よりて是を記す。
The individual designated as the Counsellor was the one unluckily called the Censor or Spy, whereas be was simply selected, from his wisdom and experience, to be the adviser of the Ambassadors in whatever matters might require consultation in the circumstances of their untried position.'He is of low stature, but well formed, and though his face is somewhat marked by the small-pox, it beams with intelligence and kindness. He is by no means a Nestor in age, though required to fulfill Nestor's duties.——华盛顿明星晚报
小栗上州は、平生果斷の人にて、公事の爲に私を忘れ、國家多事の際に臨みても、百折撓まず、只狷介の性なれば、世上の説、毀誉往々相半せり。然りと雖、今其凶報は、皇國に取りて一個の人物を失へりといふべし。且、其罪を論ぜず、其過を明めず、直ちに之を殺戮せるは、いかなる事實歟、今得て知らざれども、是れ人才を惜み忠臣を憐れむの政道にあらず。特に、朝廷億兆の民庶愛撫の趣旨とも覺えず、則之を天下の公議に質問せんのみ。——江湖新聞
小栗上野介,当算幕末一人物。此人精力充沛,富于谋略,通晓世界大势,作为德川家武士,其忠诚不二,不亚于其先祖小栗又一。简而言之,三河武士之长短优劣,皆具一身。然气量不大,让人惋惜。(小栗上野介は、幕末の一人物だよ。あの人は、精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の大勢にも略ぼ通じて、而も誠忠無二の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似て居たよ。一口にいふと、あれは三河武士の長所と短所とを兩方具へて居つたのよ。然し度量の狭かつたのは、あの人のためには惜しかつた。)——胜海舟
小栗が財政外交の要地に立ちし頃は、幕府已に衰亡に瀕して、大勢方に傾ける際なれば十百の小栗ありと雖も復奈何とも爲す可からざる時勢なりけり然れども小栗は敢て不可的の詞を吐たる事なく、「病の癒ゆ可からざるを知りて藥せざるは孝子の所為に非ず、國亡び身斃るゝ迄は公事に鞅掌するこそ眞の武士なれ」と云ひて屈せず撓まず、身を艱難の間に置き、幕府の維持を以て進みて己れが負担となせり。少なくとも幕末数年間の命脈を繋ぎ得たるは、小栗が與りて力ある所なり(余は親く小栗に隷属したるを以て、其辛苦に心力を費せると、余が目撃せる所なり)。——福地源一郎
彼は自ら其行爲を註解するを好まさりし故、最も多く人に誤解せられき。
彼は竟に其才幹を以て身を滅ぼしぬ。
然れども、彼が身を滅ぼしたる所以は、亦其世に傑出したる所以なりき。——塚越芳太郎